メディウェイズ創業までの歩み

自分の息子にはこの仕事はさせたくない…

最近会った若い柔道整復師が言った言葉だ。
私はこの言葉を良く聞いてきた。

理由は人それぞれ色々な意味がある。

「健康保険が厳しくなった。昔は良かった。」
特に柔道整復師から聞かれる言葉だ。
これは、儲からなくなったという理由からだ。
確かに、柔道整復師の平均年収は300万に満たない。
400万円前後の学費と3年間という時間を投資して苦労した国家資格。もちろん収入が全てではないが、収入はとても大切な事だ。

「骨折したら接骨院に行きますか?」

柔道整復師にこの質問をするとすると、迷わず「整形外科へ行く」という返事が返ってくる。
理由はレントゲン等の画像検査が出来ないからだ。骨折しているかさえ判断出来ない。
法律には、骨折の整復は「応急処置に限る」と追記された。
鍼灸師もそうだが、痛みの原因や施術の効果は患者さんの感じ方や言葉でしか判断できない。今のところ、非常に定性的な評価基準しかない。

私は言いたい。
もっと時代に合せて業界を変えていきたい。
仕事が減ったなら、少し領域を変えてもっと増やす事は考えられないか。
もしかしたらIot機器やウェアラブルセンサーが活用出来るかもしれない。
鍼灸の効果はあるのだから、身体の変化を証明する事が出来れば、更に患者は増えるはず。自律神経の測定もIotデバイスの進化で簡単に出来る時代だ。

元営業マンの私が、なぜ治療院業界で15年以上も長く仕事をする事になったのか。
特に資格や施術の経験の無いのに独立して整骨院を経営したのか。
そして、なぜ今、WEBサービスを立上げようとしているのか…
そこで、心の奥底にあるものをもう一度見直し、お伝えしたいと思う。

ご興味をお持ちいただきましたら、少し長いですが読んでいただけると嬉しいです。

治療院業界との出会い

医療業界とは関係の無い営業マンだった私が治療院業界に入ったキッカケは、前職場の先輩である田尻賢社長が起業した株式会社ファーストサービス(神奈川県横浜市)へ転職してからだ。29歳の時だった。

会社は立ち上がったばかりだったが、売上が立ち始め、マンションの一室から事務所を借りて引っ越すタイミングだった。社員は私を入れて5名。

メインの事業は人材紹介業。

しかも整骨院、鍼灸院経営者を対象に、就職や転職を考える柔道整復師、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師を紹介するビジネスだ。

当時、求人といえば業界専門誌「医道の日本」の巻末にある求人ページか、専門学校への求人票(壁に貼られるタイプ)を出す事しかなかった時代。その時代にインターネットで求人サイトを立上げ、登録を募るという業界では初めての取り組みだった。

私は、転職したばかりで慣れない新しい環境で、仕事でミスが続いて気持ちが落ちた時期もあった。
特に柔道整復師は明るく元気が良い方が多く、整骨院の現場で院長と話をするだけで元気になった事があった。基本的に体育会系の人が多い。

また、横の仲間意識も強い業界であり、求人する側も、求職者の登録も、ありがたいことに紹介を受ける事が多かった。

当時は専門学校が増え、資格者が増え、店舗展開で大きくなる会社が多かった。整骨院を含む治療院業界が拡大していた時期だった。
その為、求人のニーズは途絶える事なく続き、後発で人材紹介業の会社が何社も生まれ、にわかに活気がある業界だった。

ベンチャー企業で大変さや不安な事が多かったけど、そんな環境だったから4年間も続けてこれたのだと思う。

株式会社 健生への転職

ファーストサービスから卒業し、株式会社健生へ転職した。健生には10年間の長きに渡りお世話になった。最初の2年間は東京に拠点が無かった為、横浜から仙台へ引っ越した。

(ちなみに当時、新横浜まで出向いて面接してくださった大塚取締役は、私より随分と早い段階に健生を卒業され、今では株式会社フロンティアという、接骨院から幼稚園まで展開する会社を経営されている。)

健生も沢山の整骨院をチェーン展開していたのだが、私が入社したのはジャパン柔道整復師会を全国へ展開するという時期で、健生が大きく発展する為に舵を切ったタイミングだった。

今は健生の常務として中尾充社長を支えられる菅原聡さんと一緒に机を並べ、毎日の様に整骨院へ営業電話をする毎日を送った。

アポが取れると新幹線で東京や横浜まで飛んで行った。

仙台時代のひとコマ

仙台時代のひとコマ

→次のページ